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臨港丸のおはなし
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更新日 2002.04.20
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臨港丸 山ノ下乗場

新潟港内運航貨客船として親しまれ
港内遊覧にも用いられた。
新潟鉄工
山ノ下工場の下手に
発着場があった。

↑昭和48年11月 新潟日報事業社 発行
高橋五仙子 画集「思い出の新潟百景」より

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ところで、山ちゃん。
その昔、
臨港丸って船が実際に就航してたのって知ってる?

え〜、ほ、本当なんですか?

僕も見たこと無いんだけれど、
大正から昭和の初期にかけて
新潟島(下町)山ノ下との間の新潟港の中を
あっちこっち寄り道しながら走っていたんだって!

この上↑の絵は
高橋五仙子さんという方が
描いた絵なんですけれど、カッコエエですねぇ。

 こちら(
下町)から山ちゃんの方(山ノ下)を
眺めた風景みたいですよ。

へ〜ぇぇ、かわいい船ですね

そんでもって古本屋さんで
↓こんな資料を発見してきたんで
   ちょっと読んでくんなせて。

ぐ〜っ、、、

おい、寝るなっ!
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「臨港丸による東西両新潟の連絡」

 新潟臨港(株)山の下の地で築港工事・鉄道工事に着手して以来、

山の下と西新潟間の往来は日毎に増加して行ったが、

当時の交通は万代橋を渡り流作場川端を経て山の下に赴いたもので、

信濃川河口左岸入船町より対岸山の下に至る交通機関はなく、

ただ
新潟鉄工所 山ノ下工場入舟工場間に

自家用汽艇
鉄工丸を通わせているに過ぎなかった。


新潟鉄工所の入船工場と、
山ノ下工場の間を運航していた「
鉄工丸

山ノ下側から新潟島(下町方面)を眺めた絵

↑昭和48年11月 新潟日報事業社 発行
高橋五仙子 画集「思い出の新潟百景」より


そこで臨港会社では東西両新潟の交通の便を開く事になり

大正12年6月の役員会で東西両新潟間の巡航船営業を経営する事を決定し、

営業許可申請をして大正13年1月12日付で許可をとり、

同年6月6日から
第一臨港丸(3.24トン、定員乗客18人)

運行させる事になった。


航路は上大川前(鍵三本店前)から臨港の築港事業地までで、

途中
上大川前通1万代橋詰入船町新川口(鉄工所前)に立寄った。

巡航回数は開業当初は7往復し、同年9月15日からは12往復し、

この時から
万代橋詰の寄港地を廃し篠田旅館前と下大川前6を増設した。

 この巡航船は当初利用者は少なかったが、交通上の便宜は非常なものであった。


そのうちに次第に一般の利用者が増加して行ったので、

大正13年秋には朝夕のラッシュ時には全乗客を収容する事が

困難になったので、ドイツ製ディーゼル機関を備えた

第二臨港丸(14トン)を建造し、大正14年11月4日から

就航させた。これには
100人の乗客を収容できたので、

朝夕の混雑を緩和する事ができた。


その後も乗客は増加する一方であったので、

大正15年5月25日には
第三臨港丸(20.96トン)を建造し

翌6月から就航させた。


写真↑昭和44年新潟市発行
新潟開港百年史より
第三臨港丸


そして中央埠頭にも寄港地を新設し、1日21往復に拡張した。

続いて
第五臨港丸(15.65トン)を建造し

大正15年12月15日から就航させ、運航も一日25往復に増加させた。


以上、昭和44年新潟市発行「新潟開港百年史」より参照
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山ちゃん!山ちゃん!

むにゃむにゃ、、、はっ!
た、為になったっす!


ホントかなァ(笑)まぁいいや
ところで、
昭和12年頃の新潟の地図を入手してみたら、
臨港丸の
航路が描いてありましたよ!

うわー!万代島がすごい形です〜!


昔の地図は面白いね〜
現在の風景と比べてみましょうよ!
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臨港丸の航路が記載されている、昭和12年頃の地図より作製 



マップ上(A)

新潟島(下町)のこの地点には
旧臨港丸発着所跡
残っているんだそうですよ 


うむ〜っ!カッコエエですねぇ 


マップ上(A)より
現在の山の下方面の眺め
みなとトンネル縦坑(山の下)と
新日本海フェリー 

マップ上(A)より
現在の万代島方面の眺めっす!

佐渡汽船発着所万代島
朱鷺メッセ
が見えます

 つづく! 
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新潟西港


新潟西港

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